注意!:本記事は映画鑑賞後に読むことをお勧めします!
シネマ隊長
総合評価91/100点!
●40~59点:駄作だが擁護出来る部分もある
●60~75点:良くも悪くも普通
●76~84点:かなり面白かった
●85~89点:また見たい
●90~94点:何度も見て研究したい
●95~100点:死の間際に見たい
目次
『ワンスアポンアタイムインハリウッド』あらすじ
リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)は人気のピークを過ぎたTV俳優。映画スター転身の道を目指し焦る日々が続いていた。そんなリックを支えるクリフ・ブース(ブラッド・ピット)は彼に雇われた付き人でスタントマン、そして親友でもある。目まぐるしく変化するエンタテインメント業界で生き抜くことに精神をすり減らしているリックとは対照的に、いつも自分らしさを失わないクリフ。パーフェクトな友情で結ばれた二人だったが、時代は大きな転換期を迎えようとしていた。そんなある日、リックの隣に時代の寵児ロマン・ポランスキー監督と新進の女優シャロン・テート(マーゴット・ロビー)夫妻が越してくる。今まさに最高の輝きを放つ二人。この明暗こそハリウッド。リックは再び俳優としての光明を求め、イタリアでマカロニ・ウエスタン映画に出演する決意をするが―。
そして、1969年8月9日-それぞれの人生を巻き込み映画史を塗り替える【事件】は起こる。
『ワンスアポンアタイムインハリウッド』感想
タランティーノのデリケートな映画愛…
本作は映画ファンなら誰でも知っている69年のハリウッドで起きた悲劇「シャロン・テート殺害事件」が物語のベースとなっています。私たち映画ファンの多くが彼女の名前を耳にすると血塗られた惨劇を連想してしまいます。
タランティーノはそういったシャロン・テートにこびりついた事件のイメージを洗い流すことを目的の一つとして本作を制作したと語っています。
タランティーノは、シャロンについて「映画の中で“普通であること”を表現するはずだった」女優だと語っている。しかしそのイメージも、彼女自身が犠牲になった惨殺事件から切り離せるわけではない。「シャロン自身がそういうつもりでなくとも、僕たちは(映画に)彼女の生きざまを見ています。だって、それは彼女が奪われてしまった人生だから」。
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タランティーノ自身も認めるように、シャロンは「悲劇的な死によって定義づけられ、歴史に残った」存在である。
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「マーゴットがシャロンを演じるところを、実際のシャロンはそれ(事件の被害者)以上の人物だったというところを観ていただいています。シャロンはすごく素敵な人で、みなさんには彼女の精神や人生を感じ取ってもらえている。彼女は、普通の人が日常的にやるようなことをやるわけです。お使いもするし、車も運転する。本物のシャロン自身さえ(マーゴットに)並んで見えてくるように思いますね。
いまや、みなさんは従来とは違った形でシャロンについて考えることになるでしょう。彼女や、あらゆることについては、始まりと終わりだけじゃなくて、もっと学べることがある。とにかく彼女を甦らせるという点でいえば、この映画ではそういうことをやったんです。小さいけれど、意味のあることだと思っています。」
引用元:『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』シャロン・テートは「タランティーノ作品らしさを避けた」 ─ 監督が人物に託した願いとは
上記の通り、タランティーノは『ワンスアポンアタイムインハリウッド』でシャロンを“普通の素敵な女性”として描くことに注力したそうです。
私自身、本作を見ていて「彼女のパートだけタランティーノらしさが削がれているな」と感じました。
リック(レオナルドディカプリオ)やクリフ(ブラッドピッド)のパートは軽妙で、時にエグみを感じるタランティーノらしさ満載でしたが、シャロンのパートではそれらのどれもが“良い意味”でなりを潜めていたように思えます。
シャロン・テートというキュートで無垢な女性の日常生活を見守っているような…、今までのタランティーノ作品では感じたことのない胸の奥がほんのりと温かくなってくる不思議な雰囲気が感じられました。
だからこそ、ラストで迫ってくる“あの時”のことを考えずには居られずドキドキを禁じ得なかったのですが、正直終盤のシャロンは空気でしたよね。もっとガッツリ絡んできてシャロン自信がマンソンファミリーを返り討ちにするような展開を期待していたのですが特に不満は感じませんでした。むしろ初めからじっくりとシャロンのことを“ごく普通の素敵な女性”と描いていたので、終盤で急に『デス・プルーフ in グラインドハウス』に登場する血の気の多いバイオレンスな女性キャラのような描かれ方をされても困惑しただけだと思います。
シャロン・テートといういわくつきのキャラクターを血みどろの惨劇が繰り広げられているすぐそばで、ささやかな幸せを謳歌している“ごく普通の素敵な女性”として描ききったタランティーノの手腕は流石としか言いようがありません。
しかし、なぜタランティーノはシャロン・テートのイメージ改善にここまで心血を注いだのでしょうか?自分が得意とするよう演出やキャラクター作りの手法を削ぎ落としてまで…。
その動機は彼の“デリケートな映画愛”にあるのではないのでしょうか。彼はシャロン・テートという名前を聞いて“シャロン・テート殺害事件”を連想してしまう自分自身の心に違和感を感じ苦しんで来たのだと思います。
というのも私自身、『ワンスアポンアタイムインハリウッド』を見終えた後、とある事件のことをすぐに思い出してしまいました。
「京都アニメーション放火事件」です。
私は一人のアニメファンとして「京都アニメーション放火事件」のことを未だに引きずっています。「京都アニメーション」という単語を耳にすると放火事件のことを直ぐに連想してしまい、素直に作品を鑑賞することが出来なくなってしまったのです。
このことを友人に打ち明けると「作品と事件のことは別だろ」と一蹴されてしまいました…。もっともな意見だと思います。作品を事件と関連付けて素直に楽しめないことは、アニメを制作された方たちに対してとても失礼な事であり事件とは切り離して作品を楽しむことが何よりの弔いになる……と理解出来ていても、どうしても事件のことが頭をよぎってしまいます。
「京都アニメーション=放火事件」と捉えてしまう自分が不甲斐なく、自分の心に違和感を感じる今日この頃です。
タランティーノも、ハリウッドのミューズとして愛されていたシャロン・テートのことを“シャロン・テート殺害事件の被害者”と捉えてしまう自分の心に違和感を感じ、憤りや不甲斐なさを感じていたのではないでしょうか?
タランティーノといえば“ハイテンションな映画オタク”、“激情家”といった印象をこれまで持っていたのですが、実はとてもデリケートな性格の持ち主なのかもしれないと、本作を通して感じました。
“クリエイターの愛”が“独りよがりな思想”から守られるおとぎ話
前述の通り、本作でシャロン・テートを普通の女性として描くことが重視されていたのですが、そういった緩やかな日常描写の裏にタランティーノの密かな怒りを感じました。
本作でシエロ・ドライヴ10050番地(シャロンやリックが住む住宅街)を襲撃したマンソンファミリーの一員のセリフで、「私たちに殺しを教えたクソったれどもを殺してやるんだ!」というものがありましたよね。
家を襲撃されたリックは多くの西部劇に出演し様々なキャラクターを殺してきたことでしょう。
しかし、彼は「殺しの方法を広める」ことを目的に俳優業に勤しんできたわけではありませんよね。彼は一人の俳優として時に喜び、時に思い悩みながら真摯に“演技”をしてきたにすぎません。
上記のセリフはリックを一人の血の通った人間として見ているのではなく、テレビの中に登場するキャラクターとして薄っぺらく捉えているからこそ吐ける言葉でしょう。とても独りよがりなものの見方ですよね。
リックも自分たちと同じ人間で、彼にも彼なりの人生があり西部劇に出演している……、ここまで認知することを放棄しています。
私はこういった部分にタランティーノの怒りを感じました。
それだけに、ラストのクリフ(ブラッドピッド)無双は爽快感は筆舌に尽くしがたいものに仕上がっていたのだと思います。
本作からは、その人生に目を向けず勝手な思い込みで映画・ドラマ作りに打ち込む人間を恐怖のどん底に陥れた犯人たち……、そしてその人生に目を向けず事件についてばかり注目してしまう世間……、それら全てに対し「シャロンはただの被害者ではない!一人の愛すべき人間だったんだ!」と私たちの目を覚まそうとするタランティーノの警鐘が聞こえてきます。